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親鸞聖人の生涯(2)

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法然上人との出会い

 比叡山を下りた親鸞聖人は、聖徳太子の徳にあやかろうと、洛中の六角堂に百力日の参籠をすることにしました。六角堂は聖徳太子の創建とされ、本尊である救世観音は太子の本地であると信じられていました。そして、参籠九十五日目の明け方、夢の中に聖徳太子が現れ、東山吉水の法然上人のもとに行くよう告げられたのです。
 法然上人は長承二年(1133年)の生まれで、聖人が訪れたときは69歳でした。法然上人が浄土宗というー派を立てて、「念仏を称えることによってのみ救われる」という専修念仏を説いたのは承安五年(1175年)のことです。
 その後、法然上人の教えはか貴賎男女を問わず広がりはじめ、関白九条兼実が受戒をしたり、源平の合戦で勇名をはせた熊谷直実も弟子にになるなど、吉水の法然上人のもとには連日、大勢の人々が詰めかけていました。
 法然上人の吉水ヘ行くよう聖徳太子から教えを受けた聖人は法然上人を訪ね、それから百日間、吉水の草庵に日参し、あらゆる疑間や不審を間いただしました。
 そして、「弥陀の本願は、もとより凡夫を救うために起こされたものであるから、信じて御名を称えるばかりである」との法然上人の教えを聞いて、たとえ悪道に堕することがあっても、上人の仰せに従ってどこまでも専修念仏するという堅い信念を持つに至ったのです。そのときの心境を聖人は『教行信証』の後序で、「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の磨、雑行をすてて本願に帰す」と述ベています。
 法然上人の教えの根本は、ただ口に南無阿弥陀仏という名号を称えさえすれぱ、他の難しい行を修さなくても、またー字も知らない無智な人であっても、善人も悪人も区別なく、必ず阿弥陀仏に救われるというものです。
 法然上人の弟子となった聖人は念仏集団に加わり、研鑽と修行の日々に励むことになります。その頃、聖人が書写した『観無量寿経集註』『阿弥陀経集註』が現存していますが、その余白には、さまざまな仏典からの引文が、びっしりと書き込まれています。
 また、33歳のときには法然上人の著書『選択本願念仏集』を書写し、法然上人の肖像を書き写すことも許されました。このことは、聖人にとって生涯忘れることのできない出来事であり、『教行信証』の巻末に、「悲喜の涙をおさえて由来の緑を註す」と、わざわざこの事情を特記して感想を述べています。







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