現代という状況のなかで、「欲しいものただひとつ」ということを考えると.....。
科学技術の驚異的な発達でわたしたちは、豊かで、快適で、便利な文化生活を享受しているがその代償は大きい。もはや自然破壊や環境破壊にとどまらず、人間破壊にまで及んでいる。それは何よりも人間不信と、それによるシラケの蔓延である。
しかし、なおも肥大化Lた欲望が、その追求のみを人間の進歩 · 発展 · 意義と考えるありかたは、とどまるところを知らない。わたしたちの生活実感から言っても、より便利を求めるあまり、生活の余裕を失い、より快適さを求めるあまり、人間関係が煩わしくなり、より豊かさを求めるあり、自分の都合ばかりが増大しているるありさまである。家族や家庭の崩壊が大きな問題になっている事由でもあろう。
現在のわたしたちは社会生活においても家庭生活においても、ただ世俗的、世間的なものだけが生活の圧倒的関心事になり、どう生きるのが人間としての真実なのか、またどうするのがほんとうに足が地についた生きかたなのか。それらを誠実に間うていくことが生活の表面から忘れ去られてしまったというか、抜けおちてしまった状況であろう。人知のつくり出したこの世俗的関心事に生きることこそ、まさしく「現代の闇」である。その意味で現代は非宗教的時代と言われることも、うなづける。
しかし人問が有限相対の存在であるかぎり、単に世俗の物質的豊かさで、このいのちが生き生きとすることなどありえぬことは、先人·先輩たちが、否、何よりもわたしたち自身が生活の中で、ひとりどこかで、それを感じているはずである。実はその深いところで感じている、心こそは「いのちがけで欲しいもの」、“これーつ”というものを求めているすがたにちがいない。というこは、それこそわたしを超えて、わたしに願い続けている「いのちの願い」、如来の本願の促しと言える。ここに現代の闇を射抜く「光」を思わされる。つまり、人間が生きるのは、単に生きてぃるのではなく、生きる「意味」を求めているということがあるのである。
〈「わが家の仏教、浄土真宗」より〉