自余の九方の仏国も
菩薩の往勤(おうごん)みなおなじ
釈迦牟尼如来偈をときて
無量の功徳をほめたまう
十方の無量菩薩衆
徳本うえんためにとて
恭敬(くぎょう)をいたし歌嘆(かたん)す
みなひと婆伽婆(ばかば)を帰命せよ
七宝講堂道場樹(しっぽうこうどうどうじょじゅ)
方便化身の浄土なり
十方来生(じっぽうらいしょう)きわもなし
講堂道場礼すべし
妙土広大超数限(みょうどこうだいおちょうしゅげん)
本願荘厳よりおこる
清浄大摂受(しょうじょうだいしょうじゅ)に
稽首帰命(けいしゅきみょう)せしむべし
自利利他円満して
帰命方便巧荘厳(きみょうほうべんぎょうしょうごん)
こころもことばもたえたれば
不可思議尊を帰命せよ
神力本願及満足(じんりきほんがんぎゅうまんぞく)
明了堅固究竟願(みょうりょうけんごくきょうがん)
慈悲方便不思議なり
真無量を帰命せよ
<メモ>
自は正面から見た鼻の形。
自分自身をいうとき、時分の鼻を指したり、
時分の鼻を押さえることは古くからのことであったらしく、
自は「おのれ、みずから」の意味となる。
甲骨文に「~自(よ)り~に至る」の用法があり、
「~より」の意味に用いる。
自は鼻の形で、「はな」の意味であったが、
おのれ、自らの意味に用いられるようになったので、
はなの意味の字として、自に鼻息の音である文字を
音符として加えた形声の字である鼻が作られた。
余のもとの字は餘に作り、音符は余(よ)。
食物の多いことをいい、のちすべて多くて「あまる」こと、
「あまり」の意味に用いる。
餘の常用漢字として余を使用する。
餘(余)とは別の余の字がある。
余は把手のついた長い針の形。
この長い針を手術刀として使い、
患部の膿血を刺して盤中に移し取ることを癒(なおる、いえる)といい、
病気や傷が治って心安らぐことを愉・愈という。
余はまた土中にさして、
地下にひそむ悪霊を取り除く呪具としても使用する。
これによって通行が安らかになることを徐といい、
悪霊を祓い清めた道を途という。
余を一人称の「われ」の意味に用いるのは、
その音を借りる仮借の用法である。