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浄土真宗中興の祖・蓮如上人(2)

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念仏の教えをわかりやすく展開

 蓮如に大きな転機が訪れたのは四十三歳のときでした。父・存如がなくなり、跡継ぎ問題が起こりました。
 蓮如は長男でしたが、庶子であることを理由に、継母・如円がわが子・応玄を本願寺八世にしようと画策したのです。存如の葬儀は応玄が中心となって執り行われ、周囲の目には応玄が後継者として決定しているものと受け取られていました。
 それに異をとなえたのが、蓮如の叔父・如乗でした。如乗は越中(富山県)井波の瑞泉寺の住持で、北陸地方の本願寺派の重鎮でした。如乗は、亡き存如の書いた譲り状があるとして、蓮如が後継者であることの正当性を主張、ついに応玄を退けて、蓮如を本願寺八世の座につけたのです。
 蓮如の時代は、応仁の乱をはじめとする戦国乱世で人々の心は動揺していました。蓮如は、こうした人々に親しく接して専修念仏の教えをわかりやすく説き、精力的に活動を展開します。
 部屋住み時代に蓮如は、浄土真宗の正しい教えを誰にでもわかりやすく理解できるように、『御文(御文章』としてまとめていきました。そして、この『御文』を通じて直接、人々に語りかけ、布教を行ったのです。
  のちに蓮如が堺の御坊に住んでいたときのことです。蓮如は御堂の卓の上に『御文』をおいて、教えを求める人々に読んで聞かせています。たとえ相手がー人でも二人でも、そのたびごとに『御文』を読んで聞かせるのです。
 そのことについて、蓮如自身は「この間面白き事を思出て候。堂に於てー人なりとも来らん人にもよませきかせば、有縁の人は信をとるべし。此間おもしろき事を思案し出たる」(『実悟旧記』)と、『御文』が布教するうえで、いかに重要であるかを痛感したと述べています。
 また蓮如はすべての門徒に対し「御同朋」として、区別することなく対等に接しました。たとえば、本願寺の本堂が上下二段に区切られていましたがこれを取り壊して平座で誰とでも膝を接して語り合ったのです。
 さらに、僧侶の特権であった読経を改め、門徒全員で唱和できるように、『正信偈、念仏、和讃』を印刷して配布したり、『御文』を書き与える文書伝導といった斬新的な工夫を難らし、積極的な民衆教化をすすめました。
 本尊は阿弥陀如来であること。そして仏壇に安置するのは「南無阿弥陀仏」という阿弥陀如来の六字の名号として、教えにかなった仏事儀礼に整えました。





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