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親鸞聖人の生涯(4)

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関東での布教

 法然上人と親鸞聖人が流罪を許されたのは、建暦元年(1211年)11月のことです。法然上人は、ただちに京都に戻られましたが、聖人は京都に帰りませんでした。これには、法然上人が赦免からわずか二カ月後の建暦二年正月に示寂されたこと、また、子供の信蓮房が生まれて1年足らずであったことなどが理由として考えられます。
 しばらく越後に留まっていた聖人は、建保二年(1214年)、関東の常陸(茨城県)に移り住みます。常陸に入られた聖人は、初めは下妻に滞在し、その後、稲田郷に移り、ここを中心に活動を展開されました。その地域は、常陸から上野(群馬県)、下野(栃木県)、下総(千葉県)、武蔵(埼玉県、東京都)から奥州(東北地方)にも及びました。
 元仁元年(1224年)には『教行信証』の著述に着手し事実上浄土真宗の立教開宗をしました。また、この年に末娘の覚信尼も生まれています。
 聖人は生涯、一つの寺院も建てず緑に従って集まってくる人々を老若男女、貴賤上下をヘだてず、「御同朋」「御同行」と呼びかけ、あるときは路傍のお堂で、あるときは民家の炉端で人々と膝を交えて仏法を語り合われました。
 聖人の教えは、武士や商人だけでなく、むしろ農民たちの間で広まりました。その多くは「文字のこころも知らぬあさましき、愚痴きわまりなき」人々でしたが、こうした門徒たちが法然上人の命日にあたる毎月二十五日に集まって聞法の会を開き、念仏することによって門徒としての自覚と信心を深めていったのです。
 聖人の弟子は現在、名前の知られる者だけでも、およそ七十名に達します。この弟子たちが、それぞれの在所で聖人の教えを広め、真仏・覚信の下野・高田門徒、性信を中心とする下総・横曽根門徒、順信を中心とする常陸・鹿島門徒、如信を中心とする奥州・大網門徒などが形成されていきました。



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