念仏弾圧で越後に流罪
法然上人の説いた念仏は、老若男女・貴賤を間わず誰でも容易に実践できる教えでしたので世の中に広く浸透していき、次第に大きな勢力となっていきました。また浄土の教えは、旧来の仏教を聖道自力門で難行であると批判したため、比叡山や奈良の旧仏教勢力から危険視され、迫害を受けるようになります。
元久元年(1204年)、比叡山延暦寺の僧徒が専修念仏の停止と念仏集団の解散を朝廷に強訴しました。これに対して、法然上人は七ケ条の起請文を起草し、門弟189人の署名を添えて天台座主に送り、一応事なきを得ました。
しかし翌年には、奈良・興福寺が九ケ条に及ぶ過失を取り上げて、専修念仏を禁止するよう朝廷に奏上しました。そのため、建仁二年(1207年)二月、ついに朝廷より専修念仏停止の命令が下り、法然上人以下十数人の死罪、流罪の処分が言い渡されたのです。
法然上人は土佐(高知県)に、聖人は越後(新潟県)に流罪されることになりました。二人は僧の身分を剥奪され、法然上人は藤井元彦、聖人は藤井善信という俗名が与えられ、それぞれ配流の地に赴いたのです。このとき、法然上人は75歳、聖人は35歳であり、東西に生別させられた師弟は以後、二度と再びこの世で会うことはありませんでした。
京都で生まれ育った聖人にとって、越後での生活は厳しく骨身にしみるものがありました。しかし、そうした逆境にあっても聖人はひるむことなく、自己の信心をいっそう深めていきました。そして、僧としての優越感や世俗の論理をも捨て、「僧に非ず、俗に非ず、是の故に禿の字をもって姓となす」とう“非僧非俗”の境地に立たれ、以後、自身を「愚禿」と名乗られました。
そして聖人は、この地で恵信尼という女性と結婚し、家庭を営みました。恵信尼は越後の豪族・三善為教の娘といわれていますが、確証はありません。ただし、残された手紙などから、かなり身分の高い家柄に育ち、気品と教養を備えた女性であったことがわかります。聖人と恵信尼との間に
は六人の子女ができたといわれています。