親鸞聖人の「浄土真宗」とは、法然上人によって開かれた「浄土宗」の真実義を開顕されたものである。
法然上人の開かれた「浄土宗」とは、その名のごとく一口でいえば「往生浄土」の教えである。浄土は阿弥陀如来の世界であり、往生は南無阿弥陀仏という称名念仏によって浄土に生まれることを言う。そこを法然上人は、
それ速やかに生死を離れんと欲わば、二種の勝法の中に、しばらー聖道門を閣きて、選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲わば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの雑行を抛うちて、選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲わば、正助二業の中に、なお助業を傍にして、選びて正定を専らすべし。正定の業とは、すなわちこれ仏の名を称するなり。称名は必ず生まるることを得、仏の本願に依るがゆえに。
(「選択集」総結三選の文)
と言いきられているが、これこそ末法無仏の世における唯一の成仏道なりと高らかに宣言された法然上人の浄土宗独立という歴史的事実であった。
その法然上人との千載一遇の出遇いをえて本願念仏の浄土宗に帰入し、しかもその浄土宗の真実義を開顕されたところに、親鸞聖人の歴史的位置があったのである。「開顕」というのは、法然上人によって興隆された浄土宗の内実は、真実「教」(浄土三部経)、「行」(選択本願念仏)、「証」(弥陀の浄土=涅槃界)の道と開き顕わされたということである。それはー口で言えば
ただ一向に念仏すべし
(『一枚起請文』)
の行証道であり、それを親鸞聖人は
涅槃の真因はただ信心をもってす
(『教行信証』の「信巻」)
と「真実の教」(大無量寿経)・「行」(如実の称名)・「信」(真実の信心)・「証」(証大涅槃)
に体解されたのである。
つまり「ただ一向に念仏すべし」の教えに直参した足下に“念仏する心は、いかなる心か”を問い返し、そこに“念仏する心も、また念仏なり”と聞思して、
南無阿弥陀仏はすなわちこれ正念なりと、知るべしと。
(『教行信証』の「行巻」)
と言いきられれることとなったのである。-それは我らにとって、まさに「回心」の体験であるー。
そこに法然上人の「浄土宗」が定散の自心(自己関心の心)で念仏する「浄土仮宗」(自力の念仏)に異なる「浄土真宗」(他力の念仏)であることを開顕されたのであった。この開顕こそ代表作「教行信証」制作の眼目であり、浄土真宗の真骨頂といえよう。『末灯鈔』第一通に見る
浄土宗のなかに、真あり仮あり。真というは選択本願なり。仮というは、定散二善なり、選択本願は浄土真宗なり。定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗の中の至極なり。
のことばは、親鸞聖人の仏教史観の簡潔な表現として、ことのほかー汪目されるところなのである。