東と西に二分された本願寺
信長が本能寺で明智光秀に討たれ、その後、豊臣秀吉が天下を統一します。秀吉は信長と違って本願寺に対してあまり強硬な姿勢を取らず、次第にその関係は友好的なものとなっていきました。
天正十九年(1591年)、秀吉は京都堀川七条に寺地を寄進し、翌年、顕如は本願寺を再興しますが、この年の十一月、顕如は病にかかり亡くなってしまいます。
秀吉は教如に本願寺を継がせましたが、翌年、母の如春尼が教如の弟であるは准如への譲り状をもって秀吉に訴えました。秀吉はその訴えを認め教如を引退させてしまったのです。
隱棲生活を送っていた教如ですが、関が原の戦いの折、徳川家康を陣中に見舞ったのを契機に家康との関係を深めていきます。そして、慶長七年(1602年)、家康から京都七条鳥丸に土地を与えられ、本願寺を別立することになりました。このとき、かつての石山合戦で教如とともに主戦派にまわった門末は教如について本願寺を離脱しました。
以後、准如が継いだ本願寺を西本願寺、教如の本願寺を東本願寺と通称し、末寺・門徒も東西の本願寺に別れて所属することになりました。西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山、東本願寺は真宗大谷派の本山として現在に至っています。
江戸時代は、幕府の宗教政策のもと本末制度が整えられ、学林・学寮といった研鑽制度も整備され、多くの宗学者を輩出しました。。また、信心によって自由關達に生きた俗人を理想の人間像として「妙好人」と呼び、多くの妙好人伝が書かれました。
明治に入ると、井上円了、清沢満之、島地黙雷、南條文雄などが西洋哲学も取り人れて教義の近代化をすすめて近代教学の確立に大きな足跡を印し、宗祖親鸞聖人の研究も飛躍的に発展しました。
組織面では、明治五年(1872年)に各派が合同して真宗と称しましたが、明治九年(1876年)、真宗興正派が本願寺派から独立、翌明治十年には各派が別立して、ほぼ現在の体制となりました。