ー 往生は生活、すなわち行ということになりますが、往生の行、念仏生活とはどういう生活ですか?
曽我: 念仏生活ということは信心生活です。往生は行ですから、人を救うというのがでてるはずです。往生することは自分が助かったということで、おのずから感謝というものがでてきます。感謝は人を救うことです。世のため、人のためになることをするのが感謝の行であります。ただ感謝するというだけでは行にはなりませんし、観念的感謝であります。
ご和讃に「身を粉にしても報ずべし」とのべておられます。やはり身を粉にして報じなければなりません。説教者のなかには、身を粉にしても、骨を砕きてもとあるが、それだけにしても報じきれないほどのご恩をうけているのだ。そしてご恩の広大なることさえ、ありがたいとうけとれば、身を粉にしなくても、骨を砕かんでもいい、といって人を喜ばす人もいる。これは観念論です。ただ口だけでありがたいといっているのにすぎません。まあ、口でいっているうちに、しまいにほんとうにありがたい思えてきて、涙がでるということはありますが、涙を流しても、仏恩報謝の行にはなりません。行なしに報謝というものはありません。行というところにほんとうの報謝ができるのです。なにも行をしない、そこに正しい真宗がひろまらない原因もあるのでないだろうか。
『念仏のこころ』曽我量深 述より
〈メモ〉
“観念”批判であるが、宗教は多分に観念的なものではないのだろうか?観念的なものに意味が見出されそれが大きな力になっていくということはないのだろうか?