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浄土真宗の歴史(3)

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北陸にも教線を拡 大

 一方、真宗教団は北陸にも教線を拡大していきました。現在、福井県には出雲路派毫摂寺、誠照寺派誠照寺、三門徒派専照寺、山本派証誠寺がありますが、出雲路派を除く三派は、高田門徒の流れをくむ三河(愛知県)門徒の分派です。
 越前(福井県)に拠点を構えて北陸の布教に乗り出したのが、三派の開祖といわれる如導(如道)です。如導は、はじめ越前大町の車屋道場を拠点に念仏を広めていましたが、道場が次第に手狭になり、正応三年(1290年)、大町専修寺を建立しました。
 大町専修寺は、如導の二男・如浄と三男·了泉が継ぎましたが、了泉の子のとき門徒の派閥争いがあって分裂、弟の浄光は専修寺にとどまり、兄の浄ーは足羽郡蕗野郷中野に移って専照寺を建てました。この系統が山門派門徒です。
 如導の高弟・道性は、越前横越に証誠寺を建て、山元派を開きました。道性率いる横越門徒は大町専修寺門徒(大町門徒)の中でもっとも力があり、その勢力は近江(滋賀県)や美濃(岐阜県)にまで及びました。
 しかし、念仏は称えるものの、浄土の経典も読まず、肉食も禁止せず、袈裟・衣・数珠なども持たないという如導の一派を蓮如が否定したこともあり、、蓮如が京都の難を逃れて越前吉崎に移ってくるや、北陸の門徒はこぞって蓮如の門下に人るようになりました。 
 さらに、一向一揆の騒乱にさいして、証誠寺は国主である朝倉氏を助けたため、織田信長によって堂宇をすべて焼き払われ、慶長元年(1596年)に毫摂寺が末寺の大半を率いてて独立したこともあって証誠寺の勢力はすっかり衰えてしまいました。
 道性の子・如覚は鯖江門徒を率いて活躍し、真照寺を創建。真照寺は永享九年(1437年)、花園天皇より勅願所の直下を受けたとき、寺号を誠照寺に改めたといわれています。戦国時代には、北陸地方を中心に勢力を広げ、織田信長の家臣、柴田勝家に協して越前の平定につとめました。しかし、天正十一年(1583年)、勝家が豊臣秀吉に滅ぽされたとき、誠照寺も秀吉の兵によって火を放たれ、焼失してしまいました。




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