高田門徒を中心に教線を拡大
親鸞聖人の弟子の多くは、関東時代に聖人が教化した者たちで、関東のそれぞれの地域で門徒集団を形成していました。有力な門徒集団としては、真仏を中心とする高田門徒、順信を中心とする鹿島門徒、性信・善性を中心とする横曽根門徒があります。
そのなかでも、横曽根門徒を要する常陸には、聖人在世当時もっとも有力な門徒集団が形成されていました。しかし、覚如が唯善と留守職の継承をめぐって争ったとき横曽根門徒は唯善側につき、唯善が敗訴したためその勢力も衰えていきます。
横曽根門徒に代わって関東の教団の中心になったのが真仏を中心とする下野の高田門徒でした。高田門徒は、聖人の本願他力の教えをもっとも正しく伝持しているという自負と責任をもって布教したため、その教線は大きく広がりました。
高田の専修寺は、本願寺に蓮如が現れて教団組織を拡大するまでは浄土真宗の総本山という役割を果たしていました。真宗十派のうち、東西本願寺を除く八派は、木辺派を除くと、いずれも高田門徒の流れをくむものです。専修寺は第十代の真慧のとき、伊勢(三重県)のー身田に移され、これが現在の高田派専修寺です。
相模(神奈川県)には願念・了円が出て、高田派のー支流を形成しました。了円の弟子の了源は、覚如の長子・存覚の指導を受け、正中元年(1324年)、山科に興正寺を建立。興正寺はのちに渋谷に移り、寺名を仏光寺と改めました。これが、仏光寺派のおこりです。
了源や存覚の活躍によって、了円が開いた備後(広島県)の光照寺やその門徒も仏光寺の配下に入り、また、越後の三門徒派も仏光寺を本寺と仰ぐようになり、仏光寺は門前市をなすほど賑わったといいます。