大谷本廟を本願寺とした覚如
親鸞聖人の遺骨は、鳥辺野の北・大谷の地に衲められましたが、文永九年(1272年)、末娘の覚信尼は再婚相手である小野宮禅念とともに関東の門弟らにも働きかけて、聖人の遺骨を安置するための廟堂(大谷本朝)を吉水の北へ建立しました。
そして、覚信尼は関東の門弟らに本廟の地を寄付する代わりに、管理費任者(留守職)を聖人の子孫による世襲として、覚信尼自身が初代の留守職につきました。
弘安六年(1283年)、死期の近づいた覚信尼は留守職を長男の覚恵に譲りましたが、禅念の実子である唯善との同に相統争いが起がこり、唯善は覚恵を大谷本廟から追い出してしまったのです。
覚恵が没したあと、その子・覚如が留守職の相続をめぐって訴訟を起こし、正安四年(1302年)にようやく決着がつき、覚如が留守職を継承することになりました。
しかし、覚如は単なる留守職にとどまることを潔しとせず、本廟に「本願寺」の額を掲げて寺院化し、自分たちが聖人の正当な後継者であり、教団の棟梁であるとして、親鸞聖人を本願寺一世、二世を如信(聖人の孫)、みずからを三世と定めたのです。
聖人直系の血緑を切り札にした覚如の本廟の寺院化は、関東の門徒たちに反発を持たせてしまいました。寺院化し、聖人の廟堂ではなくなった本願寺に対し、当時、圧倒的多数を占めていた閲東の門徒たちは、上洛して参拝することをしなくなりました。そのため、関東の門徒たちの援助で成り立っていた本願寺は、経済的にはかなりの困窮をきわめたようです。
覚如の本願寺中心主義に対して、長子の存覚はあまり固執せず、当時、隆盛をきわめていた仏光寺の了源らとも親しく交わるなど、大和(奈良県)、近江(滋賀県)、北陸、西国に新しい門末を増やしていきました。
当時、さまざまな理由から、父·覚如は二度も存覚を義絶し、ついには本願寺の後継からはずしてしまいました。しかし、存覚の行動は、のちに本願寺と他派が合流する基礎となったともいわれています。