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浄土真宗中興の祖・蓮如上人(3)

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越前吉崎を中心に勢力を拡大

 こうした蓮如の努力の結果、本願寺教団はその勢力をー挙に拡大していきます。しかし、勢力が増大するにつれて、比叡山をはじめとする旧仏教勢力の反発を招き、寛正六年(1465年)の正月と三月の二度にわたり、本願寺は比叡山の宗徒に襲われ、大谷本願寺は破壊されてしまいました。
 蓮如は近江の堅田に難を逃れましたが、その後も迫害が続いたため越前に移り、文明三年(1471年)吉崎に坊舎を構えて、ようやく落ち着くことができました。
 吉崎を中心に教勢はさらにに発展し、北陸地方はもとより越後や信濃(長野県)、東北地方からも門徒が集まり、わずか一、二年で多屋と呼ばれる聞法や宿泊のための施設は二百にも及んだといいます。また、高田門徒や横曽根門徒の系統に属する寺院の多くも蓮如に帰依して本願寺に所属するなど、真宗の統ーがすすみました。
 こうして本願寺教団は、とくに農民の間に急速に広がり、門徒農民による堅固な組織づくりが行われるようになっていきます。
 蓮如は、門徒たちが信心のことなどを話し合うために、定期的な寄合や談合を行うことをすすめました。そして、村々の寄合は北陸一帯にわたる大きな組織ヘと発展していくのです。そして、これが、一向一揆ヘとっながっていきます。
 蓮知の布教によって、門徒が増えれば増えるほど、各地の戦国大名と本願寺教団の摩擦は度を増していき近畿・北陸・東海地方などでー揆が続発します。蓮如は、なんとかしてー向一揆を抑ようとしますが、すでにその勢いをとどめることはできませんでした。
 そして本願寺門徒が加賀(石川県)一国を支配するに至りました。その後、蓮如は吉崎を去る決意をします。文明七年(1475年)のことでした。
 吉崎を離れた蓮如は、河内や摂津(大阪府)などを中心に行動し、新たな拠点づくりに取りかかります。そして、応仁の乱も鎮静化した文明十年(1478年)、本願寺再建のため京都山科の地に移り住み文明十五年(1483年)、堀や土塁をめぐらした法城が完成し、ついに本願寺再興を果たしました。それから六年後、五男の実如に本願寺の法灯を譲った蓮如ですが、引退後も本願寺の発展に尽力します。摂津に大坂御坊を建てますが、これが、のちの石山本願寺です。そして明応八年(1499年)、蓮如は山科本願寺で八十五歳の人生を閉じました。



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