四十三歳まで部屋住みの生活
鎌倉時代から室町期にかけて、真宗教団は高田門徒を中心に教線を拡大していきますが、本願寺は真宗教団の象徴的存在にすぎませんでした。
本願寺ヘ参詣する門徒はほとんどなく、門徒の志のうえに生活の基盤を置く本願寺住職の生活は、惨めなものでした。七世・存如の頃までの本願寺の阿弥陀堂といえば、わずか三間四面のささやかなものでした。
近江(滋賀県)堅田の本福寺に伝えられている『本福寺跡書』には、「人跡たえて、参詣の人ひとりもなく、さびさびとしておわす」と記されているほどでした。
のちに浄土真宗中興の祖といわる本願寺八世、蓮如上人が生まれたのは、そんな時代でした。蓮如は応永二十一二年(1415年)、存如の長男として生まれましたが、生母は存如の正式な妻ではありませんでした。そのため、蓮如の誕生は周囲から全幅の祝福を受けるわけにはいきませんでした。
やがて存如が正妻を迎えることになり、蓮如が六歳のとき実母は本願寺を去ることになりました。それ以後の蓮如は世問の常識にたがわず、継母、如円のもとで育てられることになりました。経済的に困窮した本願寺にあって、蓮如は幼少の頃から苦しい部屋住み生活を余儀なくされたのです。
十五歳のとき、同じ真宗教団でありながら、下野高田の専修寺や京都・仏光寺の繁栄に比ベ、本願寺のあまりのさびれように愕然とし、生涯を"本願寺再興”にささげることを決意したといいます。
十七歳になった蓮如は、天台宗の青蓮院で得度し、父・存如について『教行信証』をはじめとする親鸞聖人の教えを学ぶとともに、覚如や存覚の著作などを書写して、研鑽の日々を送ります。そして、三十五歳のとき、父とともに北陸から関東、東北をまわって宗祖親鸞の教えを広めました。こうした蓮如の部屋住み生活は四十三歳まで続きますが、その間の生活は極貧といっても過言ではありませんでした。蓮如親子の生活は三度の食事も事欠くありさまで、一椀の汁を水で薄めて親子ですすったり、二、三日食事抜きということも珍しいことではなかったといいます。