六十歳を過ぎて京都に戻る
約二十年間、関東で布教された親鸞聖人は、六十歳を過ぎた頃、京都に帰られました。京都に婦られた理由としては、草稿のできていた『教行信証』を完成させるなど著作に専念するため、門弟が増えるとともに人の師と仰がれることを嫌ったため、嘉禄の念仏弾圧(1225年)で東山大谷にあった法然上人の墓所が破壊されたことなどが挙げられます。
京都に帰られた聖人はほとんど布教活動はせず、住居も五条西塔院や三条富小路などに住まい、もっぱら著述に精力をそそぎました。聖人が七十五歳の寛元五年(1247年)頃には『教行信証』が完成し、翌宝治二年(1248年)には『浄土和讃』『高僧和讃』二百三十余首をまとめられました。このほか、『浄土文類聚鈔』『愚禿鈔』『入出二門偈』『上宮太子御記』を著し、法然上人の遺文を集めて『西方指南鈔』(三巻六冊)を編纂されました。
また、関東から代わる代わる訪れてくる門弟たちに会って教義をわかりやすく説明したり、手紙で教えたりもしています。それらは、『末燈鈔』『御消息集』としてまとめられています。
聖人が京都に帰られてからも、念仏の教えは関東を中心に広まっていきましたが、悪人救済が阿弥陀仏の本願だからと平気で悪を行い、阿弥陀仏だけを信じればいいとして神や諦仏諸菩薩をないがしろにする者が多くなっていきました。
こうした異義や誤解をただすため、聖人は子の善鸞を東国に使者として遣わしました。しかし、善鸞は「みんながいままで聞いてきた教えは聖人の真意ではない。正しい法は、ある夜ひそかに自分一人に授けられた」と吹聴し、門徒たちを動揺させ誤った教えに引き入れようとしたのです。
そこで、門徒のなかにははるばる京都まで聖人を訪ね真偽を間いただす人もいました。そうした人たちに対して、聖人は善鸞の言う密伝の噂を否定するとともに、「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信じるほかに別の子細なきなり」(『嘆異鈔』)と、自身の信念を明らかにされました。
しかし、門弟の中には善鸞のもとに走る者たちも現れ、善鸞も自分の意に従わない門弟たちには、悪行の者、神や諸仏を軽んじる者だとして、名主や地頭だけでなく幕府にまで訴えたのです。その結果、性信や入信らは鎌倉幕府に呼び出されて取り調べを受けるという事態にまでなりました。
事ここに至って、聖人は善鸞を義絶し、親子の関係を断つことにしました。建長八年(1256年)、八十四歳の聖人は義絶状を門弟に送り、断腸の思いの中で、親子の緑より正法に帰依することのほうが重いことを示したのです。この事件を契機に、聖人の思索はさらに深まり、『唯信鈔文意』『一念多念文意』『入出二門偈』『正像末和讃』などを書かれました。
この事件と相前後する建長六年(1254年)、恵信尼が越後に帰郷しています。それは、三善家から相続した土地や財産を管理しながら、親に先立たれた孫たちの世話をする必要があったからです。そして、恵信尼は夫である聖人の臨終にも、また死後にも京都ヘ戻ることはありませんでした。