「罪」ということは、どういうことだろう?
本願にめざめた中身の事柄とも言えるが、間題は「罪」ということがわからなくなったことである。その意味で現代という時代は、罪の事実はあっても罪ということがわからなくなった時代と言える。生活の中では、法律に抵触すれば罰せれるということぐらいで、自分はそんな行為をしていないから、罪なんて関係がないというありかたである。
ある人は「罪の三層」ということを指摘している。まず上に述べた「法律的罪」。第二層が「道徳的罪」、これは法律に抵触するということではないが、人問とLて恥ずかしいことではないかというもの、そして第三層が「宗教的罪」である。この三層の罪を浄土真宗の根本経典である「大無量寿経に照らせば、如来の本願(四十八願とて説かれている)の中心をなす第一八の本願に説く「五逆」と「謗法」の二つの罪に該当する。五逆罪というのは、関係を生きるわたしたちにおける力関係の破壊の行為(親子関係、師弟関係、友人関係.....等の破壊)だから、先の法律的罪 · 道徳的罪がこれにあたる。謗法罪は正法を誹謗する」ことで、王法の否定を意味するが、それはー体いかなることか。
そのことに関して、ティリッヒ(1886~1965、アメリカの宗教哲学者)の所論の中に、罪(sin)という英語は、「離れて · 別べつに · ばらばらに」(asunder)という言葉と語源を同じくすることから、「分離」の意味だと言われている。このことは、「罪」と言えば普通、状態概念と考えがちだが、実は関係概念であり、問柄の問題だということを意味する。
そしてその「分離」を、やはり三層にわたって指摘している。第一層は「他者からの分離」。それは“孤独”の問題と言えよう。では、それはどうして生起してくるのか、それが第二層「自分からの分離」。それは自分が受けとれないこと。したがって、それが不満のありかたである。では、それはどうして起ってくるのか。それが第三層「存在の根拠からの分離」なのであり、存在の根拠からの切断だから、ほかならぬ“いのちの私有化”=エゴなのである。このことは、生きることの意味をー度も自問したことのないわたしたちのありかたを反顕していると言えるだろう。現前のこのいのちの事実は、その私有化意識を超えて厳粛に運ばれている。だから支配欲の私有化意識は「つねに不安におびえて生きていかねばならない。存在の根っこを切ったものは不安をかこって生きるしかない。この不安が不満を生み、不満が孤独を生む。「わしらは臍の緒を切ってもらった途端に、わしが生まれてきたという病気にかかったんや」という暁烏敏〈あけがらすはや〉(1877~1954 · 真宗大谷派の僧)の至言が想起される。
いのちの私有化による自己の実体化は、同時に他者の実体化となり、そこに自分は自分、人はひと、という分離を生じ「他者との比較でしか自分の存在が実感できないという生きかたをつくりだしている。だから、他者と比較してあるときは優越感、あるときは劣等感と、たえず揺れ動く生きかたは、まったく宗教的罪と言われる「謗法」そのもののすがたと言えよう。そうしたいのちの私有化、正法の否定としての謗法を、「大無量寿経」にはわたしたちの「本罪」と説いている。
いまわたしたちが本願にめざめることは、どこまでもそうした“いのちの公け性”に背く自分のありかたが照らしだされることであり、そこに却って同ーのいのちを共に生きあう“開かれた生きかた”を知らされていくことであろう。「万物は平等なり、万物は同根なればなり」の教言が仰がれる。