「生きかた」と言うが、それをどのように浄土真宗は表現しているのか?
端的言えぱ、「本願にめざめ、本願に生きる者となれ」、という本願の宗教と言えるだろう。ただ、この「本願」ということが、もはやスッと入ってこないかもしれない。唐突だが、相田みつをという人に次の詩がある。
ある日自分へ
お前さんな
いまー体何が
一番欲しい
あれもこれもじゃ
だめだよ
いのちがけで
ほしいものを
ただ一ツに的を
しぼって
言ってみな
遺作集「雨の日には.....」(一九九三年 · 文化出版局)より
これは“汝の欲するものは何か。” と問うている。スッと返事ができそうに思えるが、実はそれができない。すぐに言える返事は、お金だ、健康だ、家だ、車だ ....、などとなって、「あれもこれも」になってしまう。「いのちがけで欲しいものをただ一ツ」と言われたら、なかなか難しい。自分のことでありながら、自分でわからない。さてここに、道はーつと、すでにわたしに先だって“お前の真に欲するものはこれでないか。”と言いあて、それを成就せんとする真実の願いがある。それを阿弥陀如来の「本願」と言い、それが真実のことば「南無阿弥陀仏」となってわたしたちに呼びかけてくださっている。なので、その真実のことばの意味を聞くことによって本願(真に欲するもの)にめざめ,本願に生きる者になろう、というのである。